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恵みと平和の福音(2021.1.31)

聖書

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。(ガラテヤ1章3節)

礼拝音源(24.09MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 イザヤ43章1節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編8編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ1章1~5節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 4 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「恵みと平和の福音」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 521 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

「ガラテヤの信徒への手紙」は、教会を真実に正しく導く福音の羅針盤のような手紙です。この手紙のあいさつ部分に、「恵みと平和」の福音は、何をもたらすかを明らかにしています。

1.キリストの救いの確信に導く  3~4節
恵みによって、神は私たちの救いのためにすべてのものを備えていてくださいます。その恵みがあるところには、神との和解がもたらす平和と平安の祝福があります(3節)。

そして、この福音の根元には、キリストの十字架があります。キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりのため、私たちを今の悪の世界から完全に救い出すためでした。キリストは、そのようにして父なる神の深いご計画に従われたのです(4節)。

このキリストの救いの御業によってのみ、私たちは救われるのです。この救いの事実は、私たちの考えや思いが届かないほど、深く、大きいものです。

2.神の召しにあずからせる   1~2節
パウロが恵みと平和の福音の使徒とされたのは、復活されたキリストと父なる神によって直接与えられたことを語ります(1節)。こう語るのには理由がありました。ガラテヤ地方の教会に、パウロにはその資格がなく、かつてはキリスト教会とクリスチャンを迫害した過去があるために、彼を信用できないと主張する者たちがいたからです。

神は、人が神に背いていた過去の姿を見て評価し、判断されません。今、恵みと平和の福音に生きている真実な姿を見られ、その将来を見られます。私たちも、このように神に召された者であることを自覚して、栄光を神に帰する者となりましょう(5節)。

 

神が召すとき(2019.6.30)

宣教題 「神が召すとき」          宣 教  大嶋重徳師 
聖 書 イザヤ書6章1~13節

ウジヤ王の死んだ年にイザヤは神殿で幻を見ます。神の為さることの全てに神のご計画があるのであれば、この時、イザヤに神は語らなければならないことがありました。イザヤの住む南ユダ王国は偶像礼拝、姦淫、不品行が満ち、形だけの礼拝をする民が多く居ました。すでに預言者の働きを始めていたイザヤにとって、ユダの状況は怒りと裁きの預言を語るしかなかったのです。

しかし神はご自身をイザヤにあらわされ、イザヤに「わたしは汚れた唇の者」さらに「汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と自らの罪とユダ王国の罪人の繋がりの中にいる自らの存在の告白に導かれます。そして「すると」(6節)という言葉と共に、神の側の一方的な救いの業が起こり、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)という赦しの宣言がイザヤに聞こえてくるのです。

キリスト者は、自らの罪深さを深く知りつつ、尚、礼拝の只中で神の圧倒的な赦しに身を置いていることを深く知らされていく者とされているのです。そしてさらにイザヤは驚くべき神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(8節)。この驚くべき神の召命の実際を聞いたイザヤは「主よ、いつまででしょうか」(11節)と自らが受けた救いをあのイスラエルの民の中でいつ実現するのでしょうか?という祈りをささげ、キリスト預言に生涯をささげました。

私たちは今日、自分に与えられた救いの事実からどのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(15.7MB)

わたしについて来なさい(2017.7.30)

宣教題  「わたしについて来なさい」    宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章16~20節
 
 イエス様が、湖畔で網を打っていたシモンとアンデレを御覧になられたが、これは、ふと見かけた、というのではなく、じっと見つめておられたという意味です。

1.イエス様の招きによって
  神は、シモンやアンデレと同様に、神のご計画に基づいて私たちにも御言葉を与え、招いてくださいました。この神の招きによって私たちはキリスト者とされ、イエス・キリストを信じる者として主と共に歩んでいます。 そして、イエス様の「わたしについて来なさい。」という召しによって、最初の弟子が誕生したのです。

2.イエス様の召しに対する3つの疑問
 ここに三つの問いが生じます。なぜイエス様はこの四人に声をかけられたのか?なぜ弟子を求められたのか?なぜ彼ら四人は全てを捨てて、即座にイエス様に従うことができたのか? それは、彼らに弟子としての資質があったからではなく、神が愛し、選ばれ、すべての人がイエス様の弟子になるためです。そして、彼らが神の召しをしっかりと受け止めることができたからです。

3.召しによる信仰から献身へ
 神の招きを受け、信仰が与えられ、キリスト者となります。この招きが信仰の原点です。そして召しは献身者を生みます。この献身する者の群れが神の民です。
献身とは、神の召しによって生まれる者であり、他者と比べることはできません。ただ、私たちに求められているのは、神の召しに忠実であるということです。

シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、主の召しに対して即座に従いました。これは、すべての人が主の召しに対して応答する時の模範です。私たちもイエス様の救いの御業に仕え、神の栄光のために仕える者として、神の召しに即座に応える献身者とならせていただきましょう。