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光が放たれて(2020.1.10)

聖書

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(ヨハネ1章5節)

礼拝音源(29.64MB)
※誕生祝福のあと、機器操作ミスにより、頌栄まで飛んでおります。申し訳ございません。
本日正午過ぎに第2部の礼拝をアップさせていただきます。
→アップ完了しております(12:07)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編96編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章1~8節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 54 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「光が放たれて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
1月誕生者祝福 エレミヤ書31章3節b
成人祝福
賛  美 503 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ヨハネによる福音書は、神が遠い存在のお方であるというイメージを覆して、キリストにおいて身近なお方であることを明らかにしています。そのキリストは、永遠に変わることのない光となってこの世界に訪れてくださいました。

1.闇の中で輝く光として  1~5節

光であるキリストは、「闇の中で輝いている」(5節a)お方です。闇は、様々な自然災害や紛争といった人災などがもたらしています。また、真の神を見失った人間の罪がもたらしています。そして、死の恐怖がもたらしています。闇は光であるキリストを拒みましたが、キリストは十字架と復活によってその闇に対して勝利されました(5節b)。

主の弟子ヨハネは、闇から光の中に入れられた体験をし、同じような体験をした人たちをこの福音書の中で証ししています。この体験があったからこそ、「言」であり「命」であり「光」であるキリスト理解が深まっていったのです(1~4節)。私たちは、人間が作りだした自分の光に頼ることなく、光であるキリストに立ち帰ることが必要です。

2.証言される光として  6~8節

バプテスマのヨハネは、知らないうちに無目的に遣わされたのではなく、歴史の舞台に神の目的のもとに神から遣わされました(6節)。

神がバプテスマのヨハネをここに登場させなさったのは、光であるキリストとキリストによって彼の上に起こった出来事を証言させるためであり、彼を通して、すべての人が光であるキリストを信じる者となるためでした(7~8節)。私たちは、自らの存在と言動をもって、キリストの証言者にならせていただきましょう。

 

 

福音の光に照らされる(2017.1.29)

宣教題  「福音の光に照らされる」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章33~36節
主イエスが、「今の時代の者たちはよこしまだ」(29節)と指摘されましたが、そのような悪い時代だからこそ、キリストの光すなわち福音の光に照らされて、光輝くようにと命じられたのです(ヨハネ8章12節参照)。

1.光であるキリストを心の中に保ち続ける  33~35節
家に入って来る人のためには、光が見えるように、明々と灯されたともし火が用意されます(33節)。このことは、私たちが光であるキリストの招きに応じて、キリストのもとに来ているかどうかを問うておられるのです。
さらに、体のともし火であり光である目が澄んでいるか濁っているかによって、その人の存在そのものが明るくなるか暗くなるかを語られています(34節)。このことは、目が健やかで見るべきキリストを一筋に見ているかどうかによって、その人自身が明るいかどうかが分かるということを言われたのです。
そして、「あなたの中にある光が消えていないか」と問いかけておられます(35節)。そのためには、ご自身の命を投げ出された十字架のキリストを仰ぎ見て(ヘブライ12章1~2節参照)、キリストを心の中に保ち続けていることが必要なのです。

2.キリストの光を輝かせ続ける  36節
このように、内に光であるキリストを保ち続けるならば、その人自身の存在と生涯の歩みを通して、キリストを輝かせ続けていきます。
今日まで、光であるキリストがさまざまな暗闇の領域に臨まれて、個々人の生活と社会を変貌させてこられました。もし、光が暗闇に代わってしまっていることがあるとするならば、私たちは悔い改めて、もう一度光であるキリストの中に歩み直すことが必要です。私たちが、どんなに小さな存在であっても、キリストの中に歩み続けることにより、他者とその周囲を明るく輝かせていくのです。

光の中に生きる(2011.12.11)

宣教題  : 「光の中に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   1章5節~10節
イエス・キリストの来臨は、まことの光が失われてしまった世界に、神ご自身がまことの光であることを現わされた出来事でした(ヨハネ1章9節)。私たちには、この「光の中を歩む」のか、「闇の中を歩む」のかが問われています。
光の中に歩み続けるとは、どういうことなのでしょうか。

1.神と交わり続ける  5節~7節
イエス・キリストを信じる者は、光の中を歩み、神との交わりに生かされているのです。ところが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいることがあるというのです。具体的には、信仰と生活が関係なくばらばらになっている生き方をしていることです。しかし、神との交わりとは、主イエス・キリストに堅く結ばれ、主のものとされている交わりです。主に愛されていることを知るがゆえに主を愛し、礼拝に生きる者とされている交わりです。
闇の中に生きるならば、人は孤立し、互いに信頼し助け合うことができなくなります。しかし、光の中に生きるならば、互いに交わりを持つ健やかな人生がつくられ、新たな交わりを築き上げていきます。

2.神の真実に触れ続ける  7節b~10節
もし私たちが、これまで罪を犯したことがないとか、今も自分に罪がないといって罪を軽く考えるなら、それはイエス・キリストによってなされた救いの業を意味のないものとしてしまい、自分を欺くことになります。しかし、神は、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちが心にある罪の事実をそっくりそのまま神に告げて悔い改めることによって、あらゆる罪を赦し、罪から清め続けてくださるのです。この神の真実に触れ続けることが、光の中に生きることなのです。
光の中に生きることは、あやふやな生き方をすることではなく、私たちの日常生活を力ある歩みとします。ですから私たちは、自分の力で光を輝かせようとすることをやめて、まことの光であられるイエス・キリストに立ち帰り、その光の中に生き続けることが大切なのです。