イエスの招きと決断」タグアーカイブ

変えられる人生(2021.10.31)

聖 書

すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。(ヨハネ5章9節a)

礼拝音源(27.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編46編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ5章1~9節
使徒信条 93-4  1A 一  同
証し
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「変えられる人生」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 456 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

長年病気で苦しんできたひとりの人は、主イエスから「良くなりたいか」と尋ねられたことに応答して良くなり、生まれ変わらせていただきました。このように本気で問いかけられる主イエスは、どのようなお方なのでしょうか。

1. 見出し受け止めてくださる
このひとりの人は、何ともならない倦怠感と挫折感だけが残り(5節)、助けをえられないとの無力感を味わう(7節)日々を歩んでいました。主イエスは、このひとりの人の前に立ち止まり、彼を見られ、その窮状を知って、その悩みと痛みをご自身の身に受け止められました。本気で「良くなりたいか」と語られています(6節)。
心身の弱さだけでなく、人は誰もが罪の惨めさと死の恐れの経験をします。それらから、何とかならないかとあえぎ、諦め、無力感を持ちます。主イエスは、今もその惨めさを抱く一人ひとりを見出して受け止め、愛の眼差しをもって語りかけられるのです。

2. 起き上がらせ新しい歩みを造ってくださる
主イエスは、このひとりの人のすべて受け止め、担うとともに、起き上がらせ、なお深く関わっておられます(8節)。この主イエスの愛するという行動に応答した彼は、瞬時に良くなって、主イエスによって新しい歩みが造られていったのです(9節)。
続いて主イエスは、このひとりの人に「もう罪を犯してはいけない」(14節)と語られています。その罪と死に対する解決は、真実な主イエスと十字架と復活による救いにしかありません。主イエスは、今この時も「あなた」の前に立たれ、「良くなりたいか」と問いかけ、それに応答するように招いておられます。

ほんとうに良くなりたいのか(2012.10.21)

宣教題  : 「ほんとうに良くなりたいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 5章1~9節a

エルサレムの町中が祭りで祝っていたときに、ベトザタの池の周囲は失望と悲しみの渦巻く中にありました。そこにイエスが来られて、38年間も病気で苦しむ一人の人を見られ、彼の実情を知られ、「良くなりたいか」との真剣な問いかけをもって対話をされ、彼の新たな出発のときとされたのです。

1.人生は悲哀なり
この人は、病気で苦しみ続けているゆえに、失望と空しさと不安といらだちの日々を過ごしていました。自分の力でどうにもならない人生の悲哀を体験していました。さらに、彼は、イエスの「良くなりたいか」との問いかけに、人々が助けてくれないと人のせいにして自己憐憫に陥り、一緒に苦しんでくれる人がいないと諦めて無力感を味わっている始末です(7節)。
こうしたことは、極めて今日的です。人は、様々な形でこのような経験をするものですが、人であれば誰しもが共通して味わう悲哀があります。それは、罪と死の恐れの奴隷となっている惨めさです。人は、こうした惨めさから解き放たれないかとあえぎつつ、あげくはそれを他者に責任転嫁し、人は誰でも同じだと諦めてしまっているといった状況です。

2.されど歓喜とならん
人生の悲哀が、すべての結果ではありません。イエスにあっては結果ではなく始まりであり、そこからイエスが御業を始めてくださるのです。そして新たな歩みを造り出してくださるのです(8~9節)。
聖書は、人が自力で解決できない罪と死の現実を容赦なく真正面から取り上げています。そして、イエスの前に謙虚に自分の罪を告白するように迫るのは、イエスが十字架でその罪の身代わりの死を遂げ、その死の壁を打ち破って復活されたことにより、罪と死に対する勝利をされたからです。
イエスは、今も「あなた」の前に立たれ、ほんとうに良くなりたいのか、との招きに決断することを求めておられます。ここに、悲哀から歓喜へと転換点があるのです。

しあわせはここに(2008.10.19)

題   : 「しあわせはここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 5章1節~9節
聖書は全体を通して、人が神の前に真っ直ぐに歩むならば、その人生がどんな局面に遭遇したとしても、一切が神への感謝となり、神を讃えるさいわいな人生となることを明らかにしています。

1.自分のみじめさに気づかされる
「ベトザタ」と呼ばれた池の周囲にいた人々は、一様に人生の挫折を味わい、失望と空しさ、不安といらだちの中に置かれていました。38年間病気に苦しむ人も例外ではありませんでした。
彼には、自分の力ではどうすることもできないために、何とかならないか、とのあえぐ姿があります。「良くなりたいか」との主イエスの語りかけにも、助けてくれる人がいない、また一緒に苦しんでくれる人もいないと諦め、無力感を感じています(6~7節)。
今日のわたしたちも、心身の弱さだけでなく、自分の愚かさを悔いたり、取り返しのつかない失敗をしたりといったみじめさを経験します。それらは、誰しもが経験するのではありません。しかし、全ての人が共通して味わうのが、罪と死に対して神の救いにあずかっていない、というみじめさです。
何とかならないかとあえぎつつも、それを他の人に責任転嫁したり、誰もが同じだと諦めてしまう無力感を抱いたりする自分の姿に気づいていますか。

2.キリストの救いの力を経験する
「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『良くなりたいか』と言われた」(6節)と、自分のみじめさを味わう人に愛のまなざし、愛の理解、愛の語りかけをしておられます。
その究極の現われが、私たちが罪と死の虜となっているところから解き放たれるために、主イエス・キリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださり、死の壁を打ち破って復活された救いにあります。
今や私たちは、「起き上がりなさい・・・歩きなさい」(8節)との主イエスの招きに信頼して、このお方の救いの力によって立ち上がらせていただき、新たな歩みを始める必要があります。本気になって、「良くなりたいのか」との愛の招きに応ずる決断をしたいものです。