月別アーカイブ: 2015年4月

恵みの仕組み(2015.4.26)

宣教題  「恵みの仕組み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ1章41~42節

 ここでは、シモンという人物が主イエスと出会ったときに、どう変えられたかということが語られています。主イエスが言われた御言葉は、神の恵みを彷彿とさせ、私たちにも同じことがなされることを知るのです。

1.あなたはシモンである 
 主イエスの鋭くも恵みに満ちた視線がシモンに注がれています。その視線は、弱い者の中に強い者を、不義なる者の中に義を、死んだ者の中に命を見るものでした。同じ主イエスの視線が、今この瞬間においても、私たちの上に注がれています。
 そして、主イエスは開口一番、「あなたはヨハネの子シモンである」と言われました。このように主イエスは、シモンのみか私たちが持っている罪深さや弱さや醜さという人間の正体を診断されるのです。ここから、恵みの御業がなされていくのです。

2.あなたをペトロと呼ぶことにする 
 続く主イエスの御言葉は、「ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」でした。シモンにとっては全く思いもよらない言葉でした。しかし、主イエスが大きな憐れみをもって、「岩と呼ぶことにする」すなわち「ペトロにする」と言われたからには、
そうしていただくために、彼が主イエスを信じ、信頼し、自分の何もかも主イエスにかけてみようと受け入れたのです。
 同じように私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死と復活のゆえに、それを信じる信仰によって新しく造り変えられる恵みに生きることができるのです。

3.あなたはシモン・ペトロである 
 この後、「シモン・ペトロ」と呼ばれ続けたのは、シモンでありながら、主イエスによってペトロとされ続けていることへの感謝があったからです。ここに主の恵みの仕組みがあります。主イエスは、このことを忘れないで歩む者を、恵みの器として用いてくださるのです。

御言葉に生きる(2015.4.19)

宣教題  「御言葉に生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章4~15節

 主イエスは、人がふさごうとする耳を押し開くかのように、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で叫ばれています。実を結ぶように聞くことを求めておられるからです。そのために、どのように御言葉に生きるかを語られています。

1.確信と忍耐をもって 
 ここに語られているたとえは、御言葉すなわち福音が語られたとき、聞く者の心の状態によって、実を結ぶかどうかが明らかになるということです。聞いた御言葉に対して無関心になったり、始めは喜んで御言葉を受け入れても試練に遭うとすぐに御言葉から離れてしまったり、思い煩いや富みや快楽といったものによって御言葉が塞がれてしまっては、いずれも実を結ぶことはできません。しかし、主なる神は、人の心がどのような状態であっても、御言葉を語り続けてくださる大きな憐れみをお持ちです。
 まず、実を結ぶには、聞いた御言葉を「よく守り」、御言葉をしっかりと握りしめることです。御言葉を離さないで、心にいつも蓄えておくことです。そのためには、「忍耐」することが大切です。御言葉が私たちの心の中でしっかりと保たれて実を結んでいくのに必要なことは、変わることのなく御言葉にとどまり続ける忍耐です。

2.善い心をもって 
 私たちは、御言葉に対して確信を持ち、忍耐を働かせて、歯をくいしばって保ち続けるのではありません。「立派な善い心で御言葉を聞」くことによってこそ、実が結ばれていくのです。神が私たちに対して善を行ってくださるという信仰が、「善い心」なのです(ローマ8章28節参照)。神は恵みによって、私たちの心に御言葉を素直に受け入れやすいように耕してくださるので、神ご自身と御言葉に対する信頼の心を持たせていただけるのです。
私たちは、神が最善になされることを信頼して、御言葉に生きることにより実を結ばせていただくのです。

理不尽な戦闘準備(2015.4.12)

宣教題  「理不尽な戦闘準備」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア5章1~12節 エフェソ6章10~13節

 約束の地に入ったイスラエルの民たちはどのようにして来たるべき戦闘の準備をしたのか。

1. 理不尽な戦闘準備
 エジプトを脱出し、四十年の荒野の放浪の中で死に絶えた者たちは戦士であったが、カナンの地で戦おうとしている彼らの息子たちは、荒野で生まれた者であり、戦士ではなかった(4-6)。彼らは、戦いの備えをすることなく、むしろ、主の言葉に従い、自らに割礼を施した(2-3)。さらに、彼らは過越祭を祝い、酵母を入れないパンの祭を守った(10-11)。彼らの行動は、戦闘の準備としては明らかに理不尽である。彼らは勝つことを放棄したのだろうか。

2. 割礼と過越
 割礼は、創世記において主がイスラエルの先祖であるアブラハムに命じられたものである(創世記17章)。主は、アブラハムに数多くの子孫を与え、さらにはカナンの地を与えると約束をされた。自分たちは荒野で生まれた新しい世代の民だが、父たち同様に主の約束を継承していることを、民は割礼を通して確認した。次に、過越は、エジプトに奴隷となっているイスラエルの民を主が解放したことを思い起こす祭儀である(出エジプト12章)。これまでと同じように、主はこれからも救い出し続けてくださり、すべての必要を与えて、養って下さることがこの祭儀を通して思い起こされる。主がなしてくださったわざによって、これまでも、そしてこれからもイスラエルは存在することを、割礼と過越を通してイスラエルは確認した。

3. 理に適った戦闘準備
 だから、割礼も過越も、実は理に適った戦闘準備である。主がイスラエルの真ん中を歩まれているから、彼らはヨルダンを渡ることができた。カナンの王たちが恐れていたのは、イスラエルではなく、彼らのために戦われる主であった(1)。つまり、主が戦われるならば、イスラエルの勝利は確定している。これからの戦いも主の戦いであると確認することこそ、彼らにとっての最善の戦闘準備であったのだ。
 キリスト者の生涯は、「暗やみの世界の支配者」との戦いの日々である(エフェソ6:12)。この戦いに必要なのは、「神の武具」(11)、すなわち「神が戦われる」武具を身に付けること。礼拝は、これが私たちの戦いではなく、主の戦いであることを思い起こさせ、この武具を身に付けさせてくれる。主に戦っていただく、つまり、「主の依り頼む」(10)ならば、勝利は確定している。

恵みの再発見(2015.4.5)

宣教題  「恵みの再発見」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章17~21節
 
十字架に死んで復活された主イエスの救いの御業が、繰り返し語られています(1章1~12節、18~21節)。ペトロは、「知ってのとおり」と語ることにより、信仰者が救いと信仰の歩みに対する自覚を失うことないように、主イエスの恵みの再発見をするようにと勧めています。

1.こんなに大きく救われている  18~21節
 神は、「終わりの時」に主イエスによって救いの御業を具体的に始められました(20節)。その目的は、罪に捕らわれ、死に脅かされ、滅びを前にしてなすすべもなく、虚しい生き方をしていた私たちを、十字架の尊い血によって贖うためでした(18~19節)。そして、主イエスの復活に基づく希望をもたらすためでした(21節)。そのようにして、永遠の滅びから、永遠の救いに与らせてくださったのです。こんなに大きな神の恵みによって、こんなにも大きく救われていることを想起せざるをえません。
 ですから、私たちは、日常の平凡な歩みにおいても、困難な状況や激しい試練に見舞われるときであっても、主イエスの恵みのご支配を覚えて歩むのです。

2.こんなに偉大な「父」を知っている  17節
 このような神の恵みに基づく歩みは、神を畏れて生活するようになります。それには、神をどのようなお方として理解しているか、ということに関わりがあります。
「父」なる神は、主イエスによる救いのゆえに、信じる者を惜しみなく赦し、もはや罪を問われず、さばかないと宣言してくださいました。私たちは、その神を「父」と呼び、神の子とされた人格的な交わりに生かされています。愛と憐れみに満ちた神は、ご自分との交わりから一人たりとも失いたくないために、威厳と権威をもって導かれます。ですから、私たちは、それにふさわしい父なる神への畏敬の念をもった歩みをするという自覚が必要なのです。この恵みを噛みしめつつ、信仰の歩みを形づくらせていただきましょう。