月別アーカイブ: 2014年9月

礼拝のご案内・行事予定(2014.10)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム(毎週日曜日)AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
5日(日) 第1聖日 世界聖餐日礼拝
「私たちを支えるもの」
1ペトロ1:1~2
 祈りと証し
12日(日) 第2聖日
「キリストを見続ける」
ルカ7:18~23
[見あげた信仰]
マタイ15:21~28
鎌野 健一
19日(日) 第3聖日
「平安を生み出すもの」
ヨハネ20:19~23
[モーセの誕生 ]
出エジプト2:1~10
佐藤 正雄
27日(日) 第4聖日 宗教改革記念日・伝道礼拝
「イエスからの招待に応えて」
マルコ1:16?20
[ 過越 ]
出エジプト2:1~14
増永 茂

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)

AM 10:30 ~12:00
PM  7:00 ~  8:30
祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。
キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。
神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。
祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。

10月行事予定

5日(第1聖日) 世界聖餐日礼拝 聖餐式 10月誕生者祝福  エノク会例会
11日  CS秋の遠足
12日(第2聖日)神学校デー礼拝 献児式 教会員の御言葉の学び4
21日(第3聖日)礼拝  Happy Sheep  カウンセラー講習会
28日  (第4聖日)   宗教改革記念日・伝道礼拝 さんび集会

闇から光に(2014.9.28)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ヨハネ20章1~10節 エフェソ5章8節

人間は、生活や社会を明るくしようとして、様々な努力をしてきました。しかし、そのことが人の心の闇まで追いはらうことはできませんでした。人々の心は、暗さがますます深まっています。こうした闇を抱える私たちに、キリストは光となって照らし続けていてくださいます。

1.神ぬきの人生の闇から光に ヨハネ6章16~21節
ガリラヤ湖を舟で渡ろうとしていた弟子たちは、途中で強い風に見舞われ、舟が沈みそうになりました。舟にキリストをお乗せしないで漕ぎ出したことと、周りが「既に暗くなっていた」(17節)という様子が分かります。
このことは、私たちが経験する神抜きの暗闇の人生を歩む姿を表しています。しかし、そのようなとき、キリストに心と人生に乗り込んでいただいて光の中を歩むことが大切なのです。

2.罪ある人生の闇から光に ヨハネ13章21~30節
イスカリオテのユダの裏切りの場面です。彼が最後の晩餐の席から外へ出たとき、それは「夜であった」(30節)とあります。人が裏切る心は、夜のような闇の状態であって、決して晴れやか心ではありません。
私たちは、神を裏切るという罪の暗闇の中を歩むことから、光の中を歩み出す必要があります。そのために、神が独り子イエス・キリストを十字架にお架けくださって救いの道を開いてくださったのです。

3.未来なき人生の闇から光に ヨハネ20章1~10節
マグダラのマリアがキリストが死んで葬られた墓にやって来たのは、「まだ暗いうちに」(1節)でした。これは、彼女の心が「死んだらおしまいだ」との絶望感におおわれ、その心が暗かったことを象徴しています。
キリストの復活がなかったら、私たちの未来に対する保証も、手がかりもないことになります。しかし、感謝すべきことは、キリストは事実復活されたのです。十字架に死んで復活されたキリストを信じて結び合わされ、「光の子として」歩み出しましょう(エフェソ5章8節)。

福音から生まれるもの(2014.9.22)

宣教題 「福音から生まれるもの」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 ヨシュア2章1~24節 ローマ1章5節

よい知らせは人を動かし、人を変える。聖書が語る福音は、神がなされた素晴らしいわざの知らせである。そして、このよい知らせから生まれるものがある。

1. 神の素晴らしいわざ
荒野を放浪していたイスラエルの民は、約束の地に入ろうとしていた。新しい地に進む前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川の向こうにあるエリコに送った。最初に攻めるであろう町と周辺の様子を探るためであった。斥候たちはエリコに侵入するが、捕らえられそうになる。しかし、遊女ラハブの機転により追っ手から守られる(1~7)。その後、ラハブは、彼らに自分たちが聞いたこと、そしてそれに対する人々とラハブ自身の反応を話す(8~11)。ラハブは、神が葦の海でエジプトの王ファラオを打ち破ったことと、その神の働きをイスラエルの民がヨルダン川の向こう側で行ってきたことを知っていた(10)。イスラエルの民がエリコに到着する以前に、神とイスラエルのうわさはエリコに届いていたのだ。彼女は福音をもうすでに聞いていた。

2. 福音から生まれるもの
神の素晴らしいわざの知らせを聞いたエリコの人々はどう反応したのだろうか。彼らは恐怖におびえており(9)、イスラエルに立ち向かおうとする意志さえももっていなかった。世界を支配しているのは、イスラエルの神である主であることに気がついたからである(11)。本当の神を神とする思いが、ある者たちのうちに生まれた。だから、ラハブ自身は、二人の斥候に助けを求めたのだ(12~13)。福音を聞いても、それを拒絶するエリコの王のような者たちもいる。しかし、主を神とする者たちも誕生している。福音は神に信頼する神の民を生み出す。二人の斥候はラハブにどうすべきかの指示を与えたあと(17~21)、彼女の知恵に助けられて、無事にエリコを脱出し、ヨシュアのもとに戻る(22~24)。そして、イスラエルの民は神の素晴らしいわざが、自分たちを通して続いて行われることへの自信を深めていった。

十字架と復活によって神の民が誕生した。そして、神の素晴らしいわざの知らせである福音は、世界中に響いている。福音に反発する者たちの中にさえも、まことの王である主を恐れ、神の民に加わり、主に従う者はおこされている(ローマ1:5)。このように、福音は新しい神の民を生み出す神の力である。この力にもっと自信をもって、神の素晴らしいわざの知らせを語ろうではないか。

なおも望みを抱いて(2014.9.15)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ7章11~17節

主なる神は、私たちの人生のすべての日々を知っておられ(詩編139編16節)、死の世界にも踏み込んでこられるお方です(同8節)。本日の箇所は、無名の母親の一人息子の葬儀が執り行われている場面です。そこには、人の死という悲しみを乗り越えていく力と希望が、主イエスにはあることを明らかにしています。

1.憐れみ、顧みてくださる主
夫を亡くし、今また息子が死んだことによって、母親は失望と悲しみと寂しさに打ちひしがれていました。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節)、深い同情を寄せられて、その痛みをご自分のものとされています。それは、主イエスが彼女のところに訪れてくださり、「心にかけ」顧みていてくださることなのです(16節)。
主イエスは今も変わらず、罪と汚れにみち、死の不安と恐れの中にある一人一人を訪れてくださり、より近く一緒に歩んでくださり、顧み、深い同情を寄せてくださっています。この憐れみの主イエスの招きがあるゆえに、私たちはより神に近づき、神と共に歩むことができるようになるのです。

2.泣くな、起きよと宣言される主
主イエスは、母親に「もう泣かなくともよい」(13節)と言われ、息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われました。このように、すでに失った希望、口に出したくないと思いながら押し殺してしまった感情、失ってしまった目標の中に生きる者に御言葉をかけてくださるのです。ここに、主イエスがとどけてくださる救いがあります。
キリスト信仰は、主イエスの復活から始まりました。と言うのも、主イエスの十字架の死に際して、主の弟子たちは悲しみと失望の中にありました。しかし、復活されたことを知るや、「それでは一体あの十字架は何であったのか」とその意味を探り始め、その結果十字架と復活の信仰に堅く立ったのでした。復活の主イエスの恵みのご支配は、死よりも強いのです。
復活の主イエスは、今も変わらずに「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と語りかけておられます。棺の傍らに立つ者も、この望みの福音を語るのです。

私たちが熱望するもの(2012.9.12)

宣教題  : 「私たちが熱望するもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章21~22節

ここに、パウロの宣教の途上における幻が語られています。それは後日、パウロが、「・・・何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので・・・」(ロ-マ15章23節)と同じことを伝えていますが、エフェソ伝道以前から彼の内にあった熱望でした。

1.福音の拡がりを熱望する
パウロは聖霊に導かれて、これまでエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、小アジア、マケドニア、アカイア、そしてエフェソ伝道と進めてきました。その後に、「ロ-マも見なくてはならない」と、ロ-マそしてイスパニアへの伝道を神の御心と計画していたのです(ロ-マ15章24節)。その前に彼は、遠回りするように、マケドニアとアカイアの各州を通り、エルサレムに行くことを考えていました。
このような熱情は、どこから生まれてきたのでしょうか。それは、神が私たちを救おうとされた熱情からであり、その神の愛の熱情に打たれ、救いの恵みを信じ、従ったところから生じました。福音の拡がりを熱望する私たちは、福音のたすきを途切れることなく受け渡していくことが必要です。

2.福音の交わりを熱望する
パウロが、遠回りしてエルサレムに向かい、テモテとエラストをマケドニア州に先に送りだしたのには理由がありました。彼が、福音の拡がりに対する感謝をエルサレム教会に報告するときに、経済的に困難を覚えていた同教会に、異邦人教会からの献金を届けるためでした。彼がこうした行動をとったのは、ユダヤ人教会と異邦人教会が、キリストに在って一致するという福音の交わりを熱望したからでした。彼は、目前の急務を先行させつつ、福音に仕える歩みを踏みしめて行ったのす(ロ-マ15章25~29節)。
以上のように、パウロを熱望させた根底には、「・・・わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピ1章20節)との信仰がありました。これは、私たちの切望でもあります。

福音の継承と拡大(2014.9.8)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 使徒言行録28章23~31節

使徒言行録から教えられることは、主の弟子たちが万全の態勢、万全の準備が整ってから、伝道に着手したのではありませんでした。むしろ、彼らは聖霊に強いられて、伝道の場に引き出され、そこで苦闘し、悩み、祈ることを通して、訓練され、鍛えられ、吟味させられ、成長していったのです。それは、神戸中央教会の歴史も同様です。
福音宣教は、エルサレムからローマ、そして地の果てに至るまで続いています。

1.どのように福音を継承するのか  23~27節
ローマでのパウロは囚われの身でしたが、そこに訪れるユダヤ人たちに、神の恵みを具体的に実現してくださったイエス・キリストの福音を熱意と迫力をもって語たりました(23節)。聖霊によって、霊の目が開かれて、イエスこそ救い主であると信じ受け入れた者がいました。しかし、その福音に対して、聞こうともせず、心で理解しようともせず、神に立ち返って悔い改めようとしない者もいました(24~27節、イザヤ6章9~10節)。
イエス・キリストの救いは、信じ受け入れた時から始まり、人間の一生にかかわり、生活の全領域すべてにかかわることがらです。私たちは、今も変わらない普遍的で人を造り変えるキリストの福音を継承しているのです。

2.どのように福音が拡大されるのか  29~31節
パウロのローマでの日々は、独立のあるところに自由があり、自由のあるところに絶えざる創造的な働きがあったことを証ししています(30~31節)。囚われの身である彼にとっては、訪問客が大きな喜びであり、自由に伝道できたことも大きな喜びでした。もちろん、彼を通して語り続けられた福音は、神の恵みの世界へ導いてくださる主イエス・キリストとその救いでした。
さて、「使徒言行録」は、ここで終わっていますが、続く29章以降は、今日までの教会の歴史の中で書き続けられてきました。そして、福音が全世界に拡がっていきました。私たちの神戸中央教会もアンティオキア教会の姿勢に溢れて宣教を進めていくことにより、書き続けてきましたし、これからも書き続けていくのです。今、どんな書き方がなされているか、いかなることを書くかということが問われているのです。