日別アーカイブ: 2013.06.09

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。