月別アーカイブ: 2013年6月

キリストの願い(2013.6.30)

宣教題  : 「キリストの願い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章12~16節
この聖書箇所には、二つの願いが明らかにされています。人の願いと(12節)キリストの願い(13節)です。「御心ならば」、「よろしい(わたしの心だ)」は、その意志や願いを表わしています。人の願いが、キリストの願いと一つになる時に、神の御業がなされます(2コリント5章20節)。

1.人の願い
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスの御前にひれ伏しています。この謙る姿勢は、真実かつ真に勇気ある姿です。しかも主イエスがなされることを期待しつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、自分の願いを切実に祈り願っています。彼の願いは、主イエスに委ねつつも、筋の通った嘆願の祈りだったのです。
私たちは、祈り願っても現実が変わらない時、いつしか嘆願の祈りをしなくなるということがあります。そうした時にこそ、主の恵みのご支配があることを信じて、主の御心を伺いつつ、真実に祈り願う歩みであり続けたいものです。

2.キリストの願い
主イエスは、この人の願いをそのまま受け入れてくださいました。彼に触れることにより一体となられ、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスは、彼を憐れみ(マルコ1章41節)、彼の痛みを御自分の身に背負って、癒してくださったのです(イザヤ53章4節)。このようにして、彼は、神に受け入れられて神のものとされることにより神との関係が回復され、自立した生活を送ることによって社会での生きる道が開かれました。これがキリストの願いでした。
キリストが全ての人のために願っておられることは、主イエスの十字架と復活によって罪赦されて神との和解をいただき、神のために生きるとともに、他者のために生きる自立した者となることです。そこからは、人間相互の関係の回復も生まれてきます。

もう一つの命(2013.6.16)

宣教題  : 「もう一つの命」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ヨハネ10章10~11節
聖書が明らかにしている「命」には、二つの異なった言葉が用いられています。一つは、肉体上の自然的な命で、この地上の一時的な命を意味するものです。もう一つは、肉体を超えた本質的な命、永遠の命を表わすものです。後者こそが、私たちが与かる必要のある「もう一つの命」です。

1.溢れる命を 10節
主イエスが来臨されたのには、目的がありました。羊のように無力で弱い私たちが、もう一つの命を受け、しかも豊かに受けるためでした。
豊かな命は、溢れる命です。溢れる命からは、喜びが満ち溢れ(1ヨハネ1章4節)、主への感謝が満ち溢れ(2コリント4章15節)、主の慰めが満ち溢れ(2コリント1章5節)、主の愛から引き離すものからの勝利に満ち溢れ(ローマ8章37節)、主の業に満ち溢れるのです(1コリント15章58節)。
私たちが受ける溢れる命は、他者を生かしつつ、周囲を祝福します。そして、地上の終わりの向こう側に向けての備えをしつつ、人生の終わりを迎えるのです。

2.命はキリストに 11節
このような約束の御言葉を語られた主イエスが、本当に命なるお方なのでしょうか。
主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを明らかにしておられます。主イエスは、何の罪も犯しておられないお方なのに、私たち一人一人の罪を背負い、十字架に架かられて死なれました。同じように十字架に架けられた犯罪人の一人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ23章41節)と言っていますが、その当然の座が、罪の赦しと永遠の命に与かる恵みの座となったのです。
十字架の死から復活された主イエスは、今も変わらずに永遠の命を与え続けていてくださいます。命のキリストに信頼して歩み出し、また歩み続けましょう。

神はわたしたちの味方(2013.6.16)

宣教題  : 「神はわたしたちの味方」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章7~16節 ローマ8章31節b
もともと神と敵対していた私たちを、神は惜しみなく愛し、イエス・キリストの十字架の死を通して和解の道を開いてくださいました(ローマ5章10節)。それゆえに、神が私たちの味方となっていてくださるのです。神が私たちの側に立っていてくださることの実例を、本日の使徒言行録の箇所に見ることができます。

1.厳かな使命に立つ中に
ここに見るパウロは、死を覚悟して使命に生きる強い姿勢があります(13節)。
パウロは、異邦人教会からエルサレム教会に感謝の献金を届けるとともに、両教会の信仰の一致が見られることを祈り願って、エルサレムに向かったのでした。パウロは、ルカたちと共に、ティルスからプトレマイス、さらにカイサリアと航海を続けました。カイサリアのフィリボの家で泊まっていた彼らの所に、あのアガポが訪れ(11章27~28節)、エルサレムでパウロが苦難を受けることを予告しました。それを聞いたルカたちは、しきりにパウロのエルサレム行きを反対したのです。
それに対してパウロは、動揺しながらも、祈り、確信し、覚悟した信仰を貫きました。その根底には、神は私たちの側に立っていてくださるとの信仰があったからです。

2.豊かな愛の交わりの中に
教会は、使命に立って進む厳かな部分と、愛の共同体としての豊かな交わりに生きる部分の両輪があり、それをしっかりと持ってこそ健全な歩みが展開されます。
パウロ一行は、プトレマイスで兄弟たちと(7節)、カイサリアのフィリボの家の者たちと(8節)、互いの交わりを深めています(ヘブライ13章1節参照)。さらに、カイサリアの弟子たちと一緒にエルサレムへ行く途中、ムナソンの家に泊まっています。そこでは、くつろぎ、やすらぎの時を過ごしたことでしょう。死という危機を分かち合う覚悟を持った彼らには、驚きとともに慰められます。このような愛に満ちた交わりを通して、神は私たちの側に立っていてくださるという恵みを体験させていただけるのです。

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。

皆キリストの弟子(2013.6.2)

宣教題  : 「皆キリストの弟子」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章1~11節
キリストの弟子になることは、ペトロにとって大きな転機でした。私たちも、どのようにしてキリストの弟子になることができるのか、その道を探ってみます。

1.主イエスとの個人的な出会いによって  1~4節
群衆は、「神の言葉を聞こうとして」ゲネサレト湖畔まで押し寄せて来ました。主イエスは、群衆から離れて舟に乗りこんで教えておられます。それを一番近くで聞いていたのがペトロでした。彼がこのことを自ら選んだのではなくて、主イエスの方から彼を訪れてくださったのでした。
主イエスは、不漁のために途方にくれ、疲れ、空しい思い中にあるペトロと関わりをもたれました。このように主イエスは、私たちと個人的な出会いを求められるのです。

2.主イエスの前にひれ伏すことによって  5~8節
ペトロは、愚かで無駄と思われる主イエスの提案を受け入れ、「しかし、お言葉ですから」と、主イエスの御言葉に賭けています。それによって、ペトロは大漁を経験しましたが、主イエスの足もとにひれ伏さざるを得ない信仰の経験をしたのです。主イエスの聖さと力を知らされるとともに、自らの汚れと惨めさを知ったからです。
私たちは、主イエスの前にひれ伏し、主とその御業を受け入れなかったり、制限したりしている罪の赦しと聖別をいただくことが必要なのです。

3.主イエスと一緒に人を生かすことによって  9~11節
「わたしから離れてください」と語るペトロに対して、主イエスは「恐れることはない。今から後、人間をとる漁師になるのだ」と招かれました。これは、主イエスが私たちを、自分の幸福のためだけに生きるのではなくて、人を生かすために生きるように召しておられるということです。
私たちは皆キリストの弟子として招かれています。真摯に主イエスに従う一人一人となりましょう。