日別アーカイブ: 2012.11.11

御言葉がとどまる(2012.11.11)

宣教題  : 「御言葉がとどまる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章1~13節
私たちは、御言葉に対して、どのような態度を持っていることが大切でしょうか。主イエスが、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたときに、三つの試みに対して御言葉を引用しながら、「と書いてある」と言われて勝利されました。御言葉がとどまっていたからです(ヨハネ15章7節)。

1.信仰の戦いの中で
主イエスに対する悪魔の誘惑は、実に巧妙でした。「神の子なら」(3節、9節)と繰り返しているのは、主イエスが神の子であることを知って試しているのです。三つの誘惑の言葉は(3節、5~7節、9~11節)、悪魔が主イエスを自分に従わせようとする試みであり、第三の誘惑の場合は、旧約聖書の御言葉を断片的に引用して誘っています。
私たちは、荒れ野の中を通るように、試行錯誤し、悩み、苦しむという信仰の戦いを経験します。そうした試みが長く続くと、神への信頼を失ったり、神の子とされていることが揺らぎがちとなったりします。こうした時、主イエスが受けてくださった試みの極限は、十字架においてであったことを思い起こすのです。ここにこそ、私たちの救いの門が開かれているからです(ルカ23章32~43節)。

2.神の御言葉に従う
主イエスは、「と書いてある」との神の御言葉に立って、それに従って勝利されました(4節、8節、12節)。特に、「人はパンだけで生きるものではない」とあり、マタイによる福音書では、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4章4節)と続いています。このように、主イエスは、人はたとえパンがなくなったとしても、神とその御言葉を信じて生きることを強調しておられます。
これは、主イエスが、普段から持っておられた御言葉に対する姿勢をよく物語っています。よく読んで、その内容を知っておられたからこそ、「書いてある」と言えたのです。罪に負けるか、神に従うかといった重大事にあたって、神の御言葉が引用されたということは、主イエスはそれだけ御言葉に敬意を払っておられたのです。御言葉そのものが持っている力に信頼しておられたのです。これらは、私たちの姿勢でもあります。