日別アーカイブ: 2012.09.16

捕囚の地で生きる民(2012.9.16)

題   : 「捕囚の地で生きる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖書  : エレミヤ書29章1~7節、テモテへの手紙一2章1~4節
キリスト者は、神が愛し、イエスが王であり、聖霊が働いているこの世に遣わされつつも(ヨハネ17:18)、そこに属するものではありません(17:16)。この世の真ん中で、この世と異なった歩みをします。

1.置かれている地の人々のために祈る
まず、キリスト者は、置かれている地のすべての人のために祈るよう招かれています(1テモテ2:1)。この地を統治している人々のためにも祈るべきです。彼らが正しく治めることによって、信仰に立った生き方を継続できるからです(2:2)。しかし、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(2:4)主の摂理が実現へと進むために祈っているのだ、ということも忘れてはいけません。キリスト者の祈りは、いつも宣教的です。

2.置かれている地で長期的に生きる
けれども、難しい人々に囲まれた地に置かれることもあります。エレミヤの時代、バビロンへと捕らえられた人々は、自らの国を滅ぼした敵の間で住むよう求められました(エレミヤ29:1-3)。去りたい、しかし、逃げることはできない、そんな彼らに対してエレミヤは、万軍の主がそこに送られたことを告げます(29:4)。だからこそ、一時的な腰掛けではなく、長期的に住み、根ざし、増えろ、と勧めています(29:5-6)。そこが主の祝福の地だからです。

3.置かれている地の平安のために働く
しかし、求めていくのは自分たちのしあわせだけではありません。自分が置かれている町の平安を求めていくこと、敵であった人々の上に神の祝福があるように祈り、働くことも捕囚の地に住む民の使命です(29:7)。バビロンの民さえも愛しておられる主は、ご自身の民を通して主の平安がこの世界に広がることを願っておられるのですから。
神が今の場所(それが捕囚の地でも)に私たちを置かれています。その地の影響を受けてしまうのではなく、むしろ神の平安という影響を与えていきましょう。そのことを通して主の宣教のわざは進みます。