月別アーカイブ: 2011年9月

わたしたちを生かす信仰(2011.9.25)

宣教題  : 「わたしたちを生かす信仰」   宣教:   中川 利行 師
聖    書  : マルコによる福音書 16章1節~8節
キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストを神の御子、罪よりの贖い主、そしてこの方をわたしの個人的な救い主と信じる信仰です。そして福音とは、イエス・キリストの御生涯、彼が受けられた十字架による苦難、その死よりの復活を言います。

1.「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコ16章1~8節は、主のご復活の記事です。この時の三人の婦人たちは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の声を聞いた時でさえ、持参した香料のことをすっかり忘れてしまうほどに、疑いの心、落胆しきった気持ち、絶望感を抱いたままでした。婦人たちは、ここに至るまで主イエスから何度も十字架の死と復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、結局死んだらお終いだとの疑いの心に捕らわれていたのです。続いて婦人たちは、復活された主にガリラヤでお目にかかれると聞いても、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去りました。戦慄を覚えたからです。
しかし、主イエスの復活は事実起こりました。主が復活された三つの証拠があります。(1)三人の婦人の証人=彼女たちは目撃者でした。(2)大きな証拠品=封印された大きな石が転がされていました。(3)天からの証し=天使が「あの方はよみがえられた」との伝言がありました。

2.復活されたイエス・キリストをいつも思う。
キリストの使徒となったパウロは若き伝道者テモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(2テモテ2章8節)と語っています。
主イエスは今日も復活されて生きておられます。私たちが信仰生活を続けていく上で特に記憶しなければならない事は、「死者の中から復活された」イエス・キリストの事を思うことです。パウロは「イエス・キリストをいつも思い起こす。これがわたしの福音である」と生き生きと表現しています。
私たちを生かす信仰は、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを信じる信仰以外にありません。私たちは、この信仰に立つ者となりましょう。

主を愛するゆえに(2011.9.18)

宣教題  : 「主を愛するゆえに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章1節~8節、1ペトロ1章8~9節
私たちは、主イエスの愛に応答したマグダラのマリアの歩みから、さらに主イエスの愛に応答することを証言し続けたペトロのメッセ-ジから、主イエスを愛するとはどういうことかを教えられます。

1.主イエスに仕えることを喜ぶ
マグダラのマリアは、以前は「七つの悪霊」にとりつかれていた悲惨な生き方をしていました。そういうところから主イエスによって救われただけに、彼女の主イエスへの感謝は誰にも負けないくらいに深かったと思われます。ですから彼女は、主イエスが十字架にお架かりになった際もそこに立っていましたし(マルコ15章40~41節)、主イエスが葬られた後も墓から去りがたかったのです(同47節)。そして、彼女は世界で最初に復活の主イエスにお会いする光栄を与えられたのです(同16章9節)。
このように、人として惨めさを知り抜いたひとりの女性が、主イエスに愛され、その罪を赦され、悪霊から解き放たれた結果、ひたすら主イエスを愛し、仕えることを喜びとする歩みをするようになったのです(ルカ8章1~3節)。私たちが、主イエスを愛して喜び仕えていくなら、主イエスの深い愛が見えてくるのです。

2.キリストの証人であることを喜ぶ
これまでのキリスト教会の歴史において、多くの婦人たちが、黙々と忍耐深く、礼拝をささげ、祈りをささげ、教会の働きを担ってきました。何よりも、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」マグダラのマリアのように、彼女たちは十字架と復活の証人となりました(マルコ16章10節)。
ところで、ペトロもこの喜びの知らせを聞いて、復活された主イエスに会い、主イエスを愛し、信じ、喜びに満ち溢れました。同じように、魂の救いを受けている者は、主イエスを肉眼では見てはいなくても主イエスを愛してやまず、信じ、言葉では言い尽くせない喜びに溢れる者とされるのです(1ペトロ1章8~9節)。ですから私たちは、マグダラのマリアやペトロのように、主イエスに愛され、主イエスの愛に生き、主イエスを愛する者とされていることを喜びをもって証しするのです。

最高の祝福(2011.9.11)

宣教題  : 「最高の祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 民数記  6章22節~27節
モ-セとアロンとミリアムは、80歳を超えてから、神に遣わされて神の民イスラエルの先導者となりました(ミカ6章4節)。特にモ-セの兄であったアロンは、神の祝福を執り成す者として用いられました。

1.祝福を受ける
アロンは、徹頭徹尾モ-セの脇役に甘んじたという点で、たぐいまれな人物です。アロンが表面に立って語る時があるとすれば、それはモ-セの代弁者としてでした(出エジプト4章16節)。しかし、どこまでもモ-セを支えるものであって、とりわけ彼の祈りを支えました(同17章8~12節)。
ところが、モ-セが大祭司を選ぶための諸規定を神から教えられていた間(同28~29章)、アロン自身は民の要求に従って金の子牛作りに精を出していました(32章)。神は、そんなアロンの罪を赦し、「主の聖なる人」(詩編106編16節)として、神と罪人の間に立つ仲保者とする祝福を与えられました(出エジプト32章)。これは、私たちの姿を映す鏡であり、イエス・キリストの救いという祝福を受ける者の姿です(エフェソ1章3節)。

2.祝福を告げる
アロンは、神の祝福を告げる祭司として用いられました(民数記6章22~27節)。ここには、「あなた」と言われる神の民全体に対して、神の祝福と守りが(24節)、主の臨在の恵みと導きが(25節)、主の臨在の顧みと平安が備えられることが告げられています(26節)。そしてこの祝福は、全キリスト者に及び、三位一体の神の名による祝祷でもあります(1コリント13章13節)。
今日の教会の礼拝は、牧師の祝祷で終わりますが、互いの日々の歩みがこの祝福を受けたところから始まります。この祝祷は単に祝福を祈るという以上に、祝福を告げることなのです。そして、祝福のうちに死を迎え、祝福の確信をもって試練と戦うのです。私たちは、イエス・キリストに信仰によって結び合わされ、神の祝福を告げる祭司なのです。

確信はどこから(2011.9.4)

宣教題  : 「確信はどこから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章6節~10節
パウロ一行がアジア伝道からヨ-ロッパ伝道へという新たな展開をするにあたって、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」と語っています。それは、情況を総合的に判断して、このように決断したということです。この決断は、どういうところから生まれたのでしょうか。

1.聖霊の導きに従うことを通して
パウロは、第一回目の伝道の時に開拓された教会を問安し、小アジアの中心エフェソに赴く計画を持っていましたが、「聖霊から禁じられ」、続いて「イエスの霊がそれを許さなかった」と二度にわたって阻まれました(6~7節)。
主なる神の御心は別のところにあることを示そうとされたのです。この時パウロ一行は、主なる神が最善のところに導かれると信じつつも、不安と戦いつつ、迷い、悩み、戸惑ったことでしょう。
パウロが、自分の計画や考えを持ちつつ、それを捨ててまでも聖霊の導きに従うことができたのは、「私ではありません。キリストです」との信仰経験と訓練を絶えず持っていたからでした(ガラテヤ2章19~20節)。主なる神からの確信は、聖霊の導きに従うことを通して与えられるのです。

2.魂の叫びを聴くことを通して
聖霊の導きによってトロアスに着いたパウロは、一人のマケドニア人の嘆願を通して、ヨ-ロッパ伝道の幻を見たのです(8~9節)。この三度目の主なる神の導きに、「わたしたちは」とあるパウロ、シラス、テモテ、そしてルカが従ったのでした(10節)。
主イエスが一人の魂の叫びを大切にされたように、パウロは一人の魂の叫びを聴き逃しませんでした。魂の救いの叫びは、途絶えることなく続いています。主なる神は、今日までその叫びを聴いた人を用いてご自身の救いの御業を進めてこられました。私たちは、一人の人の魂の叫びを聴き取って、その人のところに遣わされていく群れであり続けたいと切願します。