月別アーカイブ: 2011年6月

愚かと見える道(2011.6.26)

宣教題  : 「愚かと見える道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  15章16節~32節

聖書は、「愚かさ」ということについて多くを語っています。とりわけ、神の救いが、イエス・キリストの十字架という一見愚かに見える方法で現わされました。そして、そのキリストためには、私たちが喜んで愚かになる道を歩むことを証ししています。

1.救いをもたらす道
ロ-マ兵に引き渡された主イエスは、「ユダヤ人の王」と見立てられての侮辱を受けられました(16~20節)。また、ゴルゴタで十字架につけられてくださった時には、そこを取り囲む人々からののしられました(29~32節)。それの侮辱の言葉は、主イエスが「他人は救ったのに、自分は救えない」ということと、「今すぐ十字架から降りる」のを見たら信じるということでした。
私たちは、彼らの言い分とは逆のところに真理を見い出しています。主イエスは、自分を救わなかったからこそ、人を救うことができたのです。十字架から降りられなかったからこそ、救い主なのです。この愚かに見える救いにこそ、「神の力、神の知恵」(1コリント1章21~25節)が明らかにされています。私たちは、神の恵みによって、この救いを受け入れるのです。

2.祝福をもたらす道
シモンは、主イエスの十字架を「無理に担がせ」られました(21節)。彼は十字架を担ぎながら、眼中から兵士や群衆も消えて、十字架上の主イエスのみが見え、救いの御言葉のみが聞こえるようになったのです。無理やりの恵みを通して、彼は主イエスに近づけられたのです。無理やりに十字架を担がせた人の手は、実は神の恵みの御手でもあったのです(ロ-マ16章13節)。
こうした経験は、私たちも日々に与えられているものです。主の十字架を無理やりにと思える形で担っていくことが、自分自身と周囲に大きな祝福をもたらします。今日も十字架の主イエスを仰ぎ、主の十字架を担って、従う者となりましょう。

神の物語を知る民(2011.6.19)

宣教題  : 「神の物語を知る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカによる福音書  24章44節~49節
教会の沿革を読む時、その教会がどのような教会であるかを知ることができる。それでは、キリスト教会を表す沿革、その物語はなんだろうか。

1.神の物語
復活されたイエスは弟子たちに「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」(24:44)を説明され、旧約聖書にはメシアの苦難と復活だけではなく、悔い改めがあらゆる国民に宣教されることが書かれていると語られた(24:46−47)。ここに神の物語の一端が記されている。
では聖書に証しされている神の物語とはどのようなものだろうか。この物語は、神による天地創造からはじまり、物質的にも知的にも社会的にもすべてのものをゆがめた堕落へと続く。しかし、神は自らが造られた世界を見捨てず、祝福するためにアブラハムの子孫を選び、彼らが世界に輝く光となるように、贖い、導かれた。残念ながらイスラエルはその任に間に合わなかった。
しかし、イエスの宣教を通して神の支配の到来が告げられ、その死と復活を通して堕落がもたらしたあらゆる問題に決定的打撃が加えられた。そして、イスラエルの祝福は異邦人へと広げられた。神の物語を知る神の民は宣教のわざを続け、イエスの再臨とそれに伴う世界の新創造を待ち望む。この物語こそ、教会が何であるかを表している。

2.神の物語を知る民
神の物語を知る民は、今の時代はすべての国民にイエスの十字架と復活と罪のゆるしを宣証する時、「恵みの時、救いの日」(第二コリント6:2)であることを知っている。遅々として歩みであったとしても、教会は新創造というゴールに向かって進んでいる。
さらに、神の物語は神が聖霊によって導かれるものである。われらが実現するものではない。だから、神が導かれる神の物語のゴールへ向けて、聖霊の風に帆を張って、その一端を担わせていただこう。

聖霊の助け(2011.6.12)

宣教題  : 「聖霊の助け」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 14章21節~28節  ローマ 8章26節
聖霊によって送り出されたパウロたちは(13章4節)、7教会を生み出すまでに伝道を展開してきました。しかし、そこには、困難や妨害といった苦難がともなっていました。聖霊は、「多くの苦しみ」と「神の国に入る」という二つの対照的な事柄を一つにしていくのです(14章22節)。

1.多くの苦しみを通して
パウロたちは、何もかも計画してその通りに伝道してきたというよりも、聖霊に満たされ、聖霊のくすしき導きに従って伝道を進めてきました。
その際パウロが経験した「多くの苦しみ」は、彼が気丈夫であったから乗り越えられたのではなく、いつも弱さを自覚しつつ苦闘していたのです(2コリント11章30節)。「弱いわたしたちを」と多くの点で弱さがあることを知っていたパウロは、とりわけ苦しみの中でどのように祈ってよいのか分からないという弱さを知っていました(ロ-マ8章26節)。
私たちが、苦悩や不安や不信といった苦難に揺さぶられたり、罪や誘惑や弱さによって失敗し挫折する経験をしたりするときに、その弱さを自らが受け入れることができるように、聖霊は助けてくださるのです。

2.神の国に入るのである
パウロたちが、アンティオキアの母教会で感謝の報告をした際に、それを自分たちが成し遂げたとは一言も言っていません。神の国に入れられるという御業は、全て神がなされるのです(27節)。ですから、全ての栄光は神にあるのです。
しかし、そのように告白させてくださるのは、聖霊の助けによるのです。聖霊が私たちと一緒に弱さを負ってくださり、聖霊が私たちと向かい合って弱さを運んでくださるからです。聖霊は、私たちに代わってとりなしてくださるからです(ロ-マ8章26節)。
このようなペンテコステの恵みの御業は、今もなし続けられているのです。

キリストの忍耐(2011.6.5)

宣教題  : 「キリストの忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ15章1節~15節  2テサロニケ3章5節
主イエスが十字架につけられてくださったのは、裁判において裁かれてくださったことによりました。それを受けとめてくださったところに、「キリストの忍耐」が表れています。

1.限りなく寛容であられた
主イエスは、神を冒涜したとの理由で死刑の判決をくだした最高法院のユダヤ人によって(14章53~65節)、主イエスには罪がないと知りつつも「十字架につけろ」との群衆の叫びに負けてしまったピラトによって(15章1~15節)、そして呪いの言葉をもって主イエスを裁いたペトロによって(14章71節)、十字架の死に定められたのでした。
この一連の出来事を、ペトロは「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(2ペトロ3章15節)と語り、パウロは「キリスト・イエスがまずわたしたちに限りない忍耐をお示しになり」(1テモテ1章16節)と証ししています。キリストの寛容と忍耐には、ただ驚くばかりです。
バラバではなくキリストが、「わたし」ではなくキリストが代わって十字架にお架かりくださったことを受け入れることのできる人は幸いです。

2.いかなる時も動揺されなかった
主イエスが、群衆の侮辱の声だけが聞こえる中を動揺することなく、十字架の道を耐え忍び通されたのは、父なる神の救いのご計画に堅く立っておられたからです(10章32~34節)。そのことを明らかにされた出来事が、「主の晩餐」においてでした(14章22~26節)。
私たちは、このようなキリストの忍耐が内に造られていくことを願います。そのためには、私たちが、様々に揺れ動く出来事に出合う時に、弱い私たちの心を導いてくださる主イエスを仰ぎ、心を主に明け渡すことです。そして、聖霊によって神の愛を注いでいただき、キリストの忍耐に与からせていただくのです(2テサロニケ3章5節)。