月別アーカイブ: 2010年8月

求めよ、さらば与えられん(2010.8.29)

宣教題  : 「求めよ、さらば与えられん」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マタイ 7章7節~12節
祈りは、クリスチャンにとって、呼吸であり、仕事であり、神様との交わりにも欠かせないものであります。それでは、神様が言われる「祈り」とはどのようなものなのか、見ていきたいと思います。

1.誰に求めるのか
お祈りをする時、誰に祈るのか、がとても大切であります。それは、「求めなさい、そうすれば、与えられる」と約束して下さっている天の父なる神様に求めるべきであります(7節)。それでは一体、誰が求めるのでしょうか。「だれでも」(8節)とあるように「あなたも」「私も」であります。
私たちは日常生活の恐れや不安から、神様に求める代わりに、人や仕事等に求めてしまう時があります。ヤコブも恐れや不安の中にいた一人でした。兄エサウが自分の長子の特権や祝福をヤコブが横取りしたため、殺そうと企んでいたからです (創世記27:41) 。そんなある日、神様が夢の中で、ヤコブに近づいて下さいました(同28:13)。恐れの中にいた彼は、神様に「エサウから助けて下さい」と祈りました。
私たちもヤコブの様に恐れや不安を覚える時がありますが、その時、私たちは誰に信頼して祈るのか。ということがとても重要なのです。

2.何を求めるのか
神様に求めるべき物は、「天の国」(神の国)です(マタイ6:33)。天の国は神様が居られ、神様の恵みが溢れている世界です。この地上にいる間にも、天の国に生きることが出来るのです。
なぜ神様は、イエス・キリストを救い主と信じ求める者に天の国を与えて下さるのでしょうか。それは、神様が一人一人の問題や必要なものすべてをご存知で、それらがすべて天の国にあるからです。神様は、全ての祈りを聞いて下さいます。一人一人の祈りに対して、最善の道へと導き、必要な物を与えて下さるのです。
天の国を与えられた私たちは、神様との正しい関係によって、隣人との人間関係を築きあげることが出来るのです。ですから私たちは、隣人に対し愛をもって積極的に行動していこうではありませんか(12節)。

愛の完成(2010.8.22)

宣教題  : 「愛の完成」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章28節~34節
主イエスは、唯一の主である神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することを、二つで一つであるかのように同列のものとして語っておられます。私たちは、本気になって神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しているかということを問いかけられています。

1.愛の優位性
ここでの律法学者の問いかけは、「イエスを試そうとして」という不純なものでした(マタイ22章35節)。主イエスは、そのような問答を用いて、何を優先すべきかを明らかにされたのです。
まず、私たちが、自分の全存在・全人格をもって、本気になって主なる神を愛することです(マルコ12章30節)。その理由は、神は唯一のお方であって、私たち一人ひとりの全てにわたって神であられるからです(同29節)。そして、神に愛されている自分を愛するように、神に愛されている隣人を愛するのです(同31節)。
私たちは、絶えず聖霊によって神の愛を注いでいただき、神を愛し、自分のように隣人を愛することに勝利させていただきましょう。

2.愛の具体性
神が私たちを愛していてくださるゆえに、私たちは愛の交わりの中を生きるようにされました(1ヨハネ4章10~11節)。ところが、私たちは自らが愛し抜けない不真実な姿に気づくことがあります。そのような時こそ、私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みに立ち続けるのです(同1章7節)。私たち一人ひとりが、主イエスの十字架を仰ぐ時、そこにある愛の力を経験するようになるのです。
私たちは、律法学者のように「神の国から遠くない」者ではなくて(マルコ12章32~34節)、主イエス十字架の愛を受け入れて、その愛に生かされ、生きる者とされましょう。

神が願っておられること(2010.8.15)

宣教題  : 「神が願っておられること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 32章23節~33節
ここには、かつて弟ヤコブの偽りと裏切りを恨んで殺意を抱いた兄エサウと、それを恐れて不安の日々を送った弟ヤコブが登場します。このような戦いや争いは、人の内にある欲望から生まれるものです(ヤコブ4章1~2節)。
神は、ヤコブのような性質を持つ私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.人の顔を恐れないで
ヤコブは、かつて神の祝福の約束をいただいて信仰の歩みを始めましたが(28章15節)、その時から20年過ぎたこの時に至るまで、大きな悩みと恐れの中を歩んでいました。成功をおさめたヤコブの記憶の底にあったものは、エサウの怒りに満ちた顔でした。それを思い出すたびごとに、彼はエソウをだまして長子の権利を奪った自分の醜さに気づかされたのでした。
ヤコブ一行が渡った「ヤボク」とは、格闘という意味があります。彼はエサウの怒りをなだめるために、多くの人間的策略をしつつ、自らはヤボクの渡しに残って祈りの格闘をしたのでした(23~25節)。
私たちは、人の顔を恐れて様々な策略をめぐらしますが、根本的な解決にはならないことを知る必要があります(箴言29章25~26節)。

2.神の顔を仰ぎ見よ
神は、ご自身と祈りの格闘をするヤコブを愛されました。神は、ヤコブの求めに対して屈してくださるお方でした(26~27節、ルカ24章29節参照)。ここに、求める者に対する神の謙遜があり、神の愛があります。
続いて神が「お前の名は何というのか」とヤコブに尋ねられたのは、彼が自分の本当の姿を直視できるようにするためでした。そして、神によって新しく変えられる恵みへと彼を導かれたのです(28~29節)。ヤコブは、神の顔を仰ぎ見て、そのご支配に自らを委ねたのでした(30~31節)。
神が最も願っておられることは、祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰と、あるがままの真の自分を認めて十字架の主にすがりつく砕かれた心です。

イエスを訪ね続けたニコデモ(2010.8.8)

宣教題  : 「イエスを訪ね続けたニコデモ」   宣教:   西原 孝至 師
聖    書  : ヨハネ 19章38節~42節
人がキリストを訪ね続けていると造り変えられ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる人になります。

1.以前、ニコデモは主イエスの教えを聞くために、夜、人目をはばかって、イエスを訪問したことがありました(ヨハネ3:1-11)。しかし、その頃のニコデモは、自分の努力で律法を守って正しい生活をし、そのことを神に喜んでもらおうとする世界に生きていたので、主イエスを信じて罪赦され、聖霊によって造り変えられるという世界を理解することは、どうしてもできませんでした。

2.その後、7章では「律法を知らない群衆は呪われている」と言うファリサイ派の人々に対して、ニコデモは「イエスがまちがっていると頭ごなしに言ってはならない。その言葉に耳を傾け、御業をよく見てから判断すべきだ」と勇気をもって語りました(50~51)。

3.やがて19章では、十字架で死なれたイエス・キリストが私たちの身代りであることを知ったニコデモは、キリストの愛に押し出されて、主イエスの死体を墓に収めるという愛のわざを、昼間堂々と人目を恐れないで行ったのでした。

誰でも始めは、キリストの言葉の意味がわかりません。しかし、ニコデモのようにイエスを訪ね続けるなら、必ず天からの助けが与えられ、造り変えられるのです。礼拝に出席し、聖書を読み、祈りを通してイエスを訪ね続けましょう。

あっ、生きている!(2010.8.1)

宣教題  : 「あっ、生きている!」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録9章36節~43節
ここに、キリストの弟子となっていた「タビタ」という婦人が登場します。彼女は、病のすえに死を迎えましたが、「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11章25節)とのキリストの宣言のとおりに、死から命に移されて、永遠の命に生きる者とされていました 。

1.キリストの復活によって
タビタがペトロの祈りを通して生き返った出来事は、かつて会堂長ヤイロの娘が主イエスによって生き返った経過と似通っています(マルコ5章21~24節、35~43節)。ただし、前者はペトロが「ひざまずいて祈り」と主イエスに対する信仰の結果でしたが(使徒言行録9章40節)、後者は主イエスご自身の力によったものでした。こうして、「多くの人が主を信じた」のでした(同42節)。栄光を現わされたのは、イエス・キリストご自身だったのです。
私たちの罪を赦す権威は、絶対者であられる神だけが持っておられます。死を超えた永遠までも保証してくださるのは、永遠の神以外にはおられません。それは、イエス・キリストの十字架と復活の救いの御業を通して明らかされたのです。この神に立ち帰ることは、私たちの最高の喜びであり、それ以上に神の最高の喜びなのです。

2.キリストの命によって
タビタは、幸いな女性信徒でした。彼女の内から溢れる美しさは、「たくさんの善い行いや施し」によって知られていました(36節)。彼女の死を悲しむやもめたちは、その生き証人でした(39節)。
罪とは自己中心に生きることです。しかし、キリストの命が与えられる救いは、私たちを神中心に生きる者に変えます。私たちは、このことを単に知的に知る、歴史的に知るだけで終わるのではなく、「この救いは、私のためでした」と一人ひとりが受け入れ、それが生活の中に浸透していくことが大切です。ですから、一度イエス・キリストを信じてその命に与かった者は、キリストの愛と命の中に自分自身を委ねて安(やす)んじるのです。神は、大地のようなお方です。