日別アーカイブ: 2009.09.13

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。