ヤコブ」カテゴリーアーカイブ

愛の働き(2019.4.7)

宣教題 「愛の働き」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章19~20節

 この手紙の締めくくりの御言葉は、信仰の確信に触れるような勧めと約束で閉じられています。そこには、真理から迷い出た者を連れ戻そうとする、ほとばしり出るような主の愛と兄弟愛が満ちています。

1.連れ戻そうとされる主の愛 
 ヤコブは、「わたしの兄弟たち」と、心よりの愛を募らせて呼びかけています。一度主イエスを信じて従う道を歩みだしたにもかかわらず、そこから迷い出た者がいたからです。主イエスは、そのような者に対してひときわ愛に燃えて、回復へと招かれます(マタイ18章10~14節、ヨハネ6章39節)。
 私たちは、主イエスとその真理の御言葉から迷い出る可能性があります。しかし、私たちは、迷い出た者を連れ戻してくださる主イエスの愛の招きにお応えすることによって、信仰の再発見をさせていただけるのです。

2.連れ戻す兄弟愛 
 迷い出た者を連れ戻すために、「だれかが」役に立つことができるのです。一人ひとりには、それをさせていただける可能性があります。
 それは実に、大きな愛の働きです。まず、「罪人の魂を死から救い出」すこと、すなわち人を永遠の死、永遠の滅びから救い出すことになるからです。また、「多くの罪を覆う」ことになるからです。もし人を連れ戻さなかったら、その人が多くの罪に堕ち込んでいくことになり、それによって周囲に罪が広がっていきます。

 大きなことをしようとする必要はありません。人が迷い出ていると気づいたら、主の愛の迫りをいただく中から祈り、愛の働きをさせていただくのです。

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持って行き場がある(2019.3.31)

宣教題 「持って行き場がある」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章13~18節

 神に祈りをささげることは、人間に与えられている言葉を最高に用いることです。
ここでは、信仰者と教会は、この祈りを十分に用いているか、この祈りが充実しているか、個人的にだけでなく、共に祈ることを大切にしているかと問いかけています。

1.祈りを聞いてくださる神 
 聖書は、あらゆる時に神に祈ることを大前提にしています。とともに、特別な時の祈りについても語っています。悩み苦しむ時、自分の罪や過ちに泣く時、心身の病によって弱わった時、喜びと感謝の賛美をささげる時に祈ります(13~15節)。
 しかもその祈りが、すぐに応えられる祈り、時間をおいて聞かれる祈り、応えられないと思えても聞かれている祈り(使徒言行録12章1~19節)、そして祈る者がよこしまな思いや不義を持ったままでいるために、聞かれないままの祈りと様々です。ともあれ、私たちは、祈りを聞いてくださる神の前に持ち出すことができるのです。

2.心から神を信頼する私たち 
 祈りには、自分自身が祈る祈りがあり(13節)、祈ってくれる人と一緒に神の方を向いて、神の前に立って心を合わせる祈りがあり(14節)、主イエスに赦されているお互いが、罪を告白し合い、互いのために祈り合う祈りがあります(15~16節)。
 それらの祈りは、「主の名によって」祈ることであり(14節)、「信仰に基づく祈り」であり(15節)、神が祈りを聞いてくださることを信じる「正しい人の祈り」です(16節)。そして、私たちの祈りが、弱さと力の限界を知って神に祈ったエリヤと同じように(列王記上18章~19章)、ただ神とその力を信じ信頼して祈るのです(17~18節)。神に自分のそのままを持って行く祈りに、勝利があるのです(16節)。

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待つ力(2019.3.3)

宣教題 「待つ力」            宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ5章7~12節
神の約束はこれまでと少しも変らず、これからも決して変わることはありません。世の終わりが来ることと、キリストが再臨されるとの約束は無関係ではありません。その「主が来られる時」を待ち望むには、信仰の力がいります。

1.待望するのはどのようなお方か
すでに僕となって来てくださったキリストは、王の王、主の主として「栄光に満ちた」(2章1節)方としてもう一度来られます。
また、信仰をいただきながら、相変わらず罪のなかに歩み続け、神をないがしろにした態度で平気でいるならば、「裁く方」として来られます(9節)。
そして、不正に悩み、悪事に苦しめられ、理不尽な出来事に振り回されてきた人々を「慈しみ深く、憐みに満ちた方」として来られます(11節)。この主の慈しみと憐みと真実は、決して尽きることがありません(哀歌3章22~23節)。

2.どのような備えをもって待望するのか
誘惑に負けないで忍耐し、心を固く保つことです(7~8節)。私たちの忍耐は、十字架に死んで復活されたキリストによって支えられ、意味あるものとされます。その実例は、試練に耐えながら信仰を貫いた人々に見ることができます(10~11節)。
また、互いに不平を言わないことです(9節)。互いに赦し合い、祈り合い、建て上げ合って、キリストの福音を携え出で行くのが教会です。
そして、自分の力と限界をわきまえて、神により頼んで歩むのです(12節)。
キリストの再臨を待望する力は、キリストご自身とその慈しみと憐みを知り続けるところから生まれてきます。

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何のための富か(2019.2.3)

宣教題 「何のための富か」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ5章1~6節 マタイ6章20節a

富んでいる者に対して、「よく聞きなさい」「御覧なさい」と厳しい警告が語られています。このように語られるのは、富をどのように受け止め、どうあることが神の祝福にあずかる健全な道なのかを明らかにしようとしているのです。

1.富を与えてくださる主  1~3節
将来を保証すると考えられがちな富には、限界があります(2~3節、マタイ6章19節)。確かに富は生活には必要なものですが、神にとって代わるものではありません。富は人の人生の終りに、繁栄の終わりに、この世の終わりに、最終的な価値をもたらさないし、何の力もありません。
ですから、人はみな、富を与えてくださる神に向かうべきなのです(1テモテ6章17節)。そのために人が持つべき大切なものは、全能の神に対する素朴な信仰です。それさえあれば、すべてのものを持つことになるからです。

2.富を管理させてくださる主  4~6節
ここには、富んでいる者が、自分のためだけに富を蓄えているときにもたらす、他の人への悲惨な影響や結果が指摘されています(4~6節)。ですから、富を得る仕方や使い方を間違い、魂を腐らせてはいけません(マタイ6章20節a)。

すべてのものは神のものです。ですから人は、神から与えられた富を正しく管理することにより、自分のためだけでなく、神のために、教会の働きのために、他者のために用いさせていただくのです。神は、そのような者に常に必要なものを与え、そうした中に生きる喜びを与えてくださいます。「終わりの時」になって慌てふためかない生き方を、主の前に持たせていただきましょう。

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確信のある人生(2018.11.4)

宣教題  「確信のある人生」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章13~17節

 神は謙遜な者に恵みを与え、主の前にへりくだる者を高めてくださいます(4章6節、10節)。私たちは、へりくだって僕となられた主イエスの御心に従い、御心を行って生きるならば、確信のある人生を過ごすことができるのです。

1.主の御心に従って生きる  13~15節
 人は、たとえどんなにこの地上で栄えていても、活力に満ちて大きな仕事をしていたとしても、今の歩みが自分の思い通りに進んでいたとしても、誰にも「明日のことは分からない」し、「自分の命」がいつ取られるか分かりません(13~14節、ルカ12章16~20節参照)。
 自分が自分の主人となって、過去も現在も将来も自分の力で生きていけると考えているならば、それは「高慢」です。しかし、主イエスが自分の主人であるとの信仰をもって、「主の御心」に従って生きていくという謙遜さがあるならば、神は恵みをもって、大胆な人生の歩みをさせてくださいます(15節)。

2.主の御心を行って生きる  16~17節
 先にあったように、神を忘れて自分の思いだけで計画を立てて動き回るのは、主の前にへりくだっていないからです。それは、神の前に「悪いこと」であり、「罪」なのです。ですから、「なすべき善を知りながら、それを行わない」歩みではなく、「わたしに良いことをしてくれた」(マルコ14章6節)と言われる主の御心を行って生きることが大切です。
 主の前にへりくだるとは、自分がへりくだっているという意識すらなく、主の恵みで十分、これで良いとうなずかせていただけることです。

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へりくだりなさい(2018.10.7)

宣教題  「へりくだりなさい」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章11~12節 ガラテヤ6章1~5節

 「ヤコブの手紙」は、徹底して謙遜に生きることを勧めています。ここでは、信仰者が自分を神の座に押し上げていないかと問いかけつつ(ヤコブ4章12節)、主の前にへりくだるようにと語っています(同10節)。

1.主の愛の眼差しを覚えて  ヤコブ4章11~12節
 主の前に高慢であることの一つの表れが、信仰者への悪口や裁きです。それらは、神の戒めである律法を無視し、そこに込められている神の御心を踏みにじることになるからです(レビ記19章16節、18節参照)。そのことを忘れている「あなたは、いったい何者なのですか」との鋭い問いを投げかけています。
 それは、神の愛の表れである主イエスの十字架と復活による救いを空しくする生き方です。私たちは、主イエスが一人ひとりに向けられている愛の眼差しを覚えつつ、互いに愛し合うことが求められているのです(ヨハネ13章34節)。

2.聖霊の実である柔和な心で  ガラテヤ6章1~5節
 しかし、他者の間違いに忠告や訓戒は必要です。それは裁くことではありません。ただ、それには条件があります。自分自身の内にある破れや痛みを被ってくださる主の恵みを覚えてへりくだる「柔和な心」をいただいていることです(1節)。他者の過ちや罪を、一緒に負わせていただく覚悟です(2節)。いろいろな点で「自分自身」はどうなのかとの謙虚に問いかけることです(3節、5節)。
 他者を愛するゆえに、その過ちや罪は黙認できません。それを指摘された者は、へりくだってそれを受け止めるのです。キリストの謙遜が、私たちの救いとなりました。それゆえに、キリストの救いが、私たちを謙遜にさせるのです。

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平和を実現する人(2018.8.5)

宣教題  「平和を実現する人」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章17~18節

 平和は、人が常に限りなく求める神との密接な関係にある生活状態です。キリスト者は、それを生活の目標としつつ、それに生きるのです(18節)。

1.神の義がともなって 
 ヤコブは、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)との主イエスの御言葉に触れ、それが彼の心にありました。ただ、主イエス同様に(ルカ12章51~53節)、平和を実現するピースメーカーは、またトラブルメーカーでもあります。それは、苦悩する中で信仰を保ち、いかなる状況下でも信仰生活が建て上げられていくために必要なことです。
 私たちの家庭に、私たちの生きている場に神の義を実現していかなければ、本当の平和は実現しません。事なかれ主義に陥ることなく、神の義なくして、平和はないことの証しに生きる者とされましょう。

2.平和の心をもって 
 「平和を実現する人々は」、「平和のうちに」とあるように、聖霊に照らされて「上からの知恵」をいただいて神の前に謙虚にされ、平和の心をいただいていることが大切です(17節)。そのためには、十字架を前にして持っておらキリストの平和をいただいていることが必要です(ヨハネ14章27節)。
 平和を実現する人は、義の実を結ばせる種を忍耐をもって蒔き続けるのです。そうすると、主なる神が、愛をもって刈り取ってくださいます。ですから、理解を得られない関わりの場においても、平和な心で、祈りと愛をもって、主に助けていただきながら歩み続けていきましょう。

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成熟した日々(2018.7.1)

宣教題  「成熟した日々」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章1~10節

 キリスト信仰者は、神の命をいただいて成長していきます。そのために、御言葉から目を離さないで、成熟した日々を歩み続けていくことが大切です。

1.罪に向かう心から  1~6節
 信仰者が心に留めておかなければならない敵があります。一つは、神を認めない、受け入れない、従おうとしない「世」です(4節)。二つは、神と信仰者に反対して働き、信仰者を陥れようとする「悪魔」です(7節)。三つは、まだ解決していない「罪」を持ち合わせていることです(8節)。罪は、信仰者が神に敵することであり(4節)、心の中にもつ罪があり(3節)、行いに表れる罪があります(1~2節)。
神は、この罪に向かう心がある者に対して、その内に聖霊を住まわせ、深く愛し、豊かな恵みに富ませて導いてくださいます(5~6節)。

2.神に向かう心に  7~10節
 神は、信仰者を愛し抜いて、神に向かうように招いておられます。その招きに応答して、神に従うことです。そうすれば、神は勝利させてくださいます(7節)。神に近づくことです。そうすれば、神は近づいてくださり、主イエスの十字架の血によって心を清くし続けてくださいます(8節)。そして、信仰者自らが深く省み(9節)、主の前にへりくだらせていただくのです。そうすれば、主は高めてくださいます(10節)。信仰者の成長は、下に向かっての成熟です。
 信仰者は、行き詰り、試み、挫折などを経験するものです。その時、神と向き合うことによって、新たに人とも向き合うことができるようにされるのです。

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上からの知恵(2018.6.3)

宣教題  「上からの知恵」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章13~18節

 聖書がいう「知恵」は、人の心を支配し、その人の考え方や生き方の判断を司り、かつ感化を与えるものです。ここに、その「知恵」の出所が二つあり、それがどのように「行い」や「生き方」となっていくかを語っています。

1.豊かな知恵である  14~18節
 人の心が「ねたみ深く利己的である」と、自分を誇って、真理であるキリストに逆らい、自分を欺くものとなります(14)。そのような知恵は、神から出たものではなく、自己中心的なものであり、混乱やあらゆる悪い行いを生じさせます(15~16)。
 しかし、人の心が、御言葉と聖霊の光に照らされることによって、神から与えられる「上から出た知恵」のご支配をいただくようになります。すなわち、主イエスの血によってきよめられ、神と人との関係が平和となり、温和で、優しく、従順で、憐れみに満ち、良い実を結ばせていただくのです(17~18)。ここに、豊かな知恵があります。

2.美しい生き方となる  13節
 人が、上から出た知恵を持っているかどうかは、その人の生き方によって明らかになります。それは、日常的に、神に対して、教会に対して、他の人に対して、ごく普通の人間関係の中で表れてきます。
 「知恵にふさわしい柔和な行い」は、神に信頼を置いて、神の御意志を行おうとするものです(マタイ11章28~30節参照)。そして、それを「立派(美しい)な生き方によって」示していくのです(マルコ14章3~9節参照)。主イエスの十字架の贖い抜きに、美しい生き方はありません。

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歓喜する力(2018.5.6)

宣教題  「歓喜する力」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章1~12節、コロサイ3章16節

 神の創造の業に忠実に存在している自然界の草木は、世界に歓喜をもたらします。同じように、神を賛美し、人々に祝福を語るために造られた人の舌は、周囲に歓喜をもたらします。それに対して、信仰上の問いかけがなされています。

1.言葉が制御されているか 
 ここには、言葉を使うことの責任の大きさを述べており、その言葉を発する「舌は小さな器官」であるにもかかわらず、次のような問題を生じさせ、時に悲劇をもたらします。小さな舌の大きな失敗(1~4)、小さな舌の大きな表現(5節)、小さな舌の大きな影響(5~6節)、小さな舌の大きな悪(7~8節)、小さな舌の大きな欺き(9~12節)と指摘されています。お互いの舌はコントロールされているでしょうか。
 とりわけ、神の御言葉の証人として立てられた教師に対しては、その責任の重いことを教えています(1~5節)。ですから、教師はいつも御言葉に従って生きることを通して、主の御業がなされる働きに加わっていくのです(イザヤ書50章4節参照)。

2.キリストの御言葉が宿っているか
 信仰者が言葉で失敗しないために、どのような備えをしたらよいのでしょうか。ヤコブは、俄然、内側の「内心」に光を当てています(13節以降)。言葉は、結局心の表れであり、心に「毒」があると、それが言葉に表れてきます(8節)。ですから、主イエスによって心から毒を取り除き、心を造り変えていただく必要があるのです。
 主イエスが信仰によって私たちの心に生きていてくださり、主の御言葉がいつも心に宿っているならば、互いに祝福を語り合い、主への賛美に溢れる信仰の歩みとなります(コロサイ3章16節)。ここに、小さな舌がもたらす大きな祝福があります。

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力ある信仰(2018.4.15)

宣教題  「力ある信仰」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章14~26節

 主イエスの救いに与るのは、どのような善行も必要ではなく、ただ信仰によります
(エフェソ2章8~9節)。その救いに与ったのには目的があり(同10節)、信仰者の生活に変化が起こります。それをヤコブは、力ある信仰として表れると言っています。

1.信仰が生きている  14~19節
 親しみをこめて「わたしの兄弟たち」と語りかけるヤコブは、祝福された信仰者の歩みについて述べています。行いの伴った信仰こそ、生きたものであり、役に立つということです(14、17、20、26節)。それは、信仰と行いが、ひとりの人格の中で一緒になってバランスがとれていることです。
 私たちの行いが、口だけをもってのものではなく(15~16節)、聖霊によって一人ひとりの心に注がれている神の愛をもってなされるときに、その信仰は本物といえるのです(1コリント13章3節)。

2.神を信頼して生きる  20~26節
 信仰によって義と認められた者の歩みは、神を信頼して生きる行いが伴ってきます。それは、アブラハムのように(21~23節、創世記22章参照)、またラハブのように(25節、ヨシュア記2章参照)、確かな神の助けと最善の導きがあるとの信仰のともなった行いです。信仰は行いの原動力であり、行いによって信仰が表され、さらに行いによって信仰がまっとうされるのです(22節)。
 私たちの信仰が、今までより以上に生活の中で行いとなって溢れていくことにより、主イエスご自身とその恵みをさらに豊かに知ることができるという経験をさせていただけるのです。

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私たちの雄々しさ(2018.3.5)

宣教題  「私たちの雄々しさ」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章1~13節

 ヤコブの手紙は、教会の大切なあり方を繰り返し語っています。信仰者の雄々しさは、何か華やかな活動をすることにまさって、極めて身近な信仰のあり方にあるということです。

1.栄光に満ちた主を信じるゆえに  1~4節
 ヤコブは、十字架に死んで復活され、今も生きておられる「栄光に満ちた」主イエスを信じ、礼拝をささげることの重みを忘れないでほしいと懇願しています。そういう信仰を持っているのですから、富や能力や男女の違いなどによって「人を分け隔てしてはなりません」と語るのです。
 こうした人を分け隔てることは、歴史の中においてのみならず、今も変らずに教会が直面することです。そのことは、「誤った考えに基づいて判断を下したことに」よることを知って、絶えず栄光に満ちた主イエスに光をあてていただいていることが大切です。

2.神の御国を受け継ぐために  5~13節
 神は、分け隔てなく信仰に富む者としていてくださり、神の御国を受け継ぐことのできる者にしてくだいます。そして、主が見ておられるように見、主が考えておられるように考え、主が取り扱われるように取り扱う者に造り変えてくださいます。
主イエスが、「憐れみは裁きに打ち勝つ」ことによって救いを全うしてくださいました。ですから信仰者は、決めつけて人を分け隔てするという罪を犯すことなく、隣人を自分のように愛するのです。このようにすることによって、信仰者の群れは雄々しく進んでいくのです。

御言葉に生きる(2018.1.28)

宣教題  「御言葉に生きる」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ1章19~25節

 神は、私たちを初々しい信仰者とするために召し出してくださいました(17~18節)。その神の御業がさらに進んでいくために、私たちが御言葉に生きることを求められています。

1.御言葉に聞く必要がある  19~21節
 御言葉を「聞くのに早く」とは、素直に、従順に、へりくだって聞くということです。「話すのに早く」とは、聞いた御言葉を思慮深く受け止め、正しく理解し、語ろうとする相手にふさわしく話すことです。そして、御言葉が自分の考えていることと合わないとか、自分の本当の姿が明らかにされているので受け入れられないということで、神に対して怒りを覚えることに「遅いようにしなさい」と勧められています。
その怒りから生まれる言動は、神の御心に適うものではありません。ですから、御言葉を受け入れなくさせる汚れや悪を素直に捨て去り、魂を救うことができる御言葉が語りかけることを聞き続けることが必要です(詩編119編130節)。

2.御言葉を行うことである  22~25節
 御言葉に聞くことから始めたならば、「御言葉を行う」ことがそれに結びついていきます。すなわち、御言葉に人格を傾けて注意深く聞くならば、それに従って行動が起こり新しい生き方が生まれてきます。ですから、御言葉に真実に向き合わず、御言葉に聞くことを忘れて、自分を欺かないことです。どこまでも、御言葉を「一心に見つめ」て生きるのです。

 一人ひとりが、御言葉の前に謙遜でありたいものです。そして、一人ひとりにふさわしく、御言葉を行う幸いに生きるものとならせていただきましょう。

思い違いをしないように(2017.11.5)

宣教題 「思い違いをしないように」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章12~18節

 主イエスを信じた者たちが「試練」の中に置かれることにより、それが「誘惑」となってしまうことがあります。その誘惑に対して「思い違いをしてはいけません」し(16節)、神がどのようなお方かを見通し、見極めることが大切です。

1.神のさばきを見通すように  13~16節
 信仰者として歩んでいこうとすると、誘惑に遭うという経験をします。神が罪の誘惑をされるのではありません。ただし神は、信仰者が誘惑に遭うことを許してはおられます。ですから、誘惑を甘く見るといった思い違いをしてはなりません。
 というのも、誘惑へと誘う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」むからです。その死とは、神を離れた状態の霊的な死です。罪の結果である死をしっかり見通すとともに、神は義なるお方ですから、罪を正しくさばかれることを忘れてはなりません。罪と死に対して、人間の側からの解決はないからです。

2.神の賜物と御心を見極めるように  17~18節
 さばきの神を知ることで終わるならば、絶望に陥ります。しかし、そのような思い違いをしてはいけません。神の賜物は、それを贈る動機において不純でなく、良いものであり完全です。この創造者である神は真実であられ不変のお方です(17節)。その神の賜物中の賜物は、主イエスです。

 神は「御心のままに」、主イエスとその福音によって私たちを新たに生まれさせ、神の子としてくださり、神のものとしてくださいました。そのことが、神が造られた被造物の「初穂となさる」ためであったとは驚くべきことです(18節)。
私たちは、この神の賜物と御心をしっかりと見極めた信仰の歩みをするのです。

知恵を求めて(2017.10.8)

宣教題 「知恵を求めて」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章5~11節

 いろいろな試練に会うとき、信仰が試されることで忍耐を生じさせ、霊的に成長した者として造り上げられていきます(2~4節)。そのような試練に際して必要なのが、神からの賜物としての知恵です。それを切に祈り求めることが必要です。

1.神はどのようにして与えてくださるのか  5節
 神からの知恵は、信仰によって「だれにでも」与えられるもので、誰一人例外がありません。しかも神の賜物として「惜しみなく」、「とがめだてしないで」すなわち過去を挙げ連ねて、見下すようなことをなさらずにお与えになります。
 それに対して、信仰者は、神からの「知恵の欠けている」という自覚を持つことが必要です。パウロは、試練のただ中にあって死の宣告を受けた思いでいたことに対して、「人間の知恵によって」対処することなく「神の恵みの下に行動」してきたと証ししています(2コリント1章8~12節)。
私たちも信仰の試練に遭ったときに、神の賜物である知恵を願い求めるのです。

2.神にどのような信仰姿勢で願うのか  6~11節
 信仰者は、へりくだって「いささかも疑わず、信仰をもって」願い求めることが大切です。そこには、神への信頼と不信が同居していることはありません(6~8節)。
神に対する深い信頼があるならば、神からの知恵が与えられるのです。
 キリストは、全ての人のために十字架に死んで救いの道を開いてくださったゆえに、いかなる人も価値ある者として受け入れてくださったのです。従って、貧しい者はキリストにあって高くされ、富んでいる者はキリストによって低くされることを勝ち誇るほどの喜びとされるのです(9~10節)。
 ですから私たちは、謙虚にへりくだった信仰をもって、神に信頼して神からの知恵を受け取るのみです。